ライト・ヒア、ライト・ナウ、とゆったんは言った
乃木坂46のゆったんこと斉藤優里ちゃんは、乃木坂メンバーの中では珍しい
文句なしにかわいい屈託のない明るく元気な女の子、といった感じの
いわば「アイドル性たっぷり」の「天性のアイドル」に見えるコです。
アイドルになること、さらにはとりわけ乃木坂メンバーになることが唯一の行き場であり
そうでなければどうなっていたか分からない、という感のある他の多数の乃木メンと比較すると
他のどんなグループ/ソロであっても、さらには「フツーの女の子」だったとしても
その愛くるしいかわいさ楽しさで
十分にやっていけただろう — 愛し愛されて人生を楽しく送れていただろう、
という感じを受けるメンバーです。
一方で、乃木坂内におけるゆったんは
「変態」「変態出っ歯たん」と恐れられるお触り魔であり、
メンバーのお尻を触る・揉む、胸を揉む、スカートの中にもぐりこむ、二の腕を噛む、等の
変態行為を繰り返す常習犯として
奇矯にしてナチュラル・ハイな乃木坂生活を謳歌しているのが報告されています。
愛され上手な明るくかわいい女の子と変態お触り魔、
この一見矛盾する二面性は如何なる解釈において合理化され得るか —
それが今エントリの試論のテーマとなります。
出番/割当尺がいつも小さい『乃木坂って、どこ?』
アンダー・メンバーによるHP配信番組『乃木坂って、ここ!』
FMラジオ局NACK5におけるレギュラー番組『おに魂』
などにおけるゆったんは
ものすごく立ち上がり速く打てば響くソリッド・ステートなベシャリ能力で
高レヴェルのアイドル性を常に発揮しています。
出っ歯たんゆえの舌足らずな滑舌、喋りたいことがあり過ぎるゆえの早口と頭の回転、
他メンバーの面白おかしく興味深いエピソード収集への観察眼、
ともに、喋ってるだけでもう十分アイドル仕事、といっていいクオリティの構成要素となっています。
そしてもちろんそれゆえにこそ、われわれファンは常に思うのです —
ゆったんにもっと喋らせろ、ゆったんにもっと時間を与えろ、と。
そしてそれこそがおそらく、斉藤優里自身が誰よりも望んでいることであり、
それがいつも不十分なことが当面の斉藤優里の悩みの種と言えそうです。
ゆったん、それはきかん坊のこどもそのもの、
笑いころげ、心のままに振る舞い、ハッピネスとスリルだけで構成された
パーフェクトな時間を過ごすことをのみ欲する
われわれ誰しもの心の中に飼いならされて潜みじっと我慢をしているきかん坊のこどもです。
われわれのほとんどは、「社会生活」を送る上で必須・必要条件とされる
努力・習練・配慮・我慢・規則 ... そして何より「待機」を受け入れて生きています。
重要な「何かの機会」に備えて、何かを犠牲にし何かを用意しておいて
その「機」に臨んでそれを出し、対価的に何かを手に入れるのです。
ゆったんにはその「待機」の時間が死んでしまいそうなくらい退屈でイヤな、
自分を脅かし、責め苛み、押しつぶすようなイヤな時間、と感じられるのかもしれません。
他の乃木メンの多くが、時間があれば打ち込んでいられる/いたいもの —
音楽、読書、お絵描き、学校のお勉強、物書き、スポーツ... etc.を持っているのに対し、
ゆったんの「アート」は、人を愛し人に愛されること、それのみなのかもしれません。
他に「何にもない」けどアイドル性だけは人一倍、
そんな人格もまたアイドル力の一種として必要かつ十分といえなくもないではありませんか。
いるだけで、そこにそうして在るだけで
エロスの象徴、エッセンス、炸裂である「アイドルであること」を体現してのける —
ゆったんのアイドルネスはそんなところにこそあるのでしょう。
アイドルという存在、またアイドルを愛するという行為/心性そのものが
もともと分ち難く「エロス」と結びついています。
われわれは男性だろうが女性だろうが
ヘテロセクシュアルだろうがホモセクシュアルだろうがバイセクシュアルだろうが
何らかのエロスなしには生きていられません。
超人間的な無償の愛「アガペー」やそれに似たヒューマンなラヴだけでは
人生や社会は到底耐え難い、潤いに欠けた退屈で窮屈な生きるに値しないものになりかねないのです。
「待機」時間中のゆったんは、自分を押しつぶしに来るそんな退屈さ窮屈さ乾燥に負けじと
いま、そこにあるエロス — 他メンバーのお尻へと向かってしまう/向かわざるを得ない、
そう考えるといろいろと「説明がつく」とも思えるのです。
ゆったん、それはきかん坊のこどもそのもの。
このきかん坊のエロスへの発作が、いま少しだけ乃木坂メンバーに引き続き許してもらえますように。
乃木坂46 『13日の金曜日』
公式チャンネル nogizaka46SMEJ·さんから
ゆったんセンターのカップリング曲「13日の金曜日」はタイプB収録
プライバシー ポリシー
文句なしにかわいい屈託のない明るく元気な女の子、といった感じの
いわば「アイドル性たっぷり」の「天性のアイドル」に見えるコです。
アイドルになること、さらにはとりわけ乃木坂メンバーになることが唯一の行き場であり
そうでなければどうなっていたか分からない、という感のある他の多数の乃木メンと比較すると
他のどんなグループ/ソロであっても、さらには「フツーの女の子」だったとしても
その愛くるしいかわいさ楽しさで
十分にやっていけただろう — 愛し愛されて人生を楽しく送れていただろう、
という感じを受けるメンバーです。
一方で、乃木坂内におけるゆったんは
「変態」「変態出っ歯たん」と恐れられるお触り魔であり、
メンバーのお尻を触る・揉む、胸を揉む、スカートの中にもぐりこむ、二の腕を噛む、等の
変態行為を繰り返す常習犯として
奇矯にしてナチュラル・ハイな乃木坂生活を謳歌しているのが報告されています。
愛され上手な明るくかわいい女の子と変態お触り魔、
この一見矛盾する二面性は如何なる解釈において合理化され得るか —
それが今エントリの試論のテーマとなります。
出番/割当尺がいつも小さい『乃木坂って、どこ?』
アンダー・メンバーによるHP配信番組『乃木坂って、ここ!』
FMラジオ局NACK5におけるレギュラー番組『おに魂』
などにおけるゆったんは
ものすごく立ち上がり速く打てば響くソリッド・ステートなベシャリ能力で
高レヴェルのアイドル性を常に発揮しています。
出っ歯たんゆえの舌足らずな滑舌、喋りたいことがあり過ぎるゆえの早口と頭の回転、
他メンバーの面白おかしく興味深いエピソード収集への観察眼、
ともに、喋ってるだけでもう十分アイドル仕事、といっていいクオリティの構成要素となっています。
そしてもちろんそれゆえにこそ、われわれファンは常に思うのです —
ゆったんにもっと喋らせろ、ゆったんにもっと時間を与えろ、と。
そしてそれこそがおそらく、斉藤優里自身が誰よりも望んでいることであり、
それがいつも不十分なことが当面の斉藤優里の悩みの種と言えそうです。
ゆったん、それはきかん坊のこどもそのもの、
笑いころげ、心のままに振る舞い、ハッピネスとスリルだけで構成された
パーフェクトな時間を過ごすことをのみ欲する
われわれ誰しもの心の中に飼いならされて潜みじっと我慢をしているきかん坊のこどもです。
われわれのほとんどは、「社会生活」を送る上で必須・必要条件とされる
努力・習練・配慮・我慢・規則 ... そして何より「待機」を受け入れて生きています。
重要な「何かの機会」に備えて、何かを犠牲にし何かを用意しておいて
その「機」に臨んでそれを出し、対価的に何かを手に入れるのです。
ゆったんにはその「待機」の時間が死んでしまいそうなくらい退屈でイヤな、
自分を脅かし、責め苛み、押しつぶすようなイヤな時間、と感じられるのかもしれません。
他の乃木メンの多くが、時間があれば打ち込んでいられる/いたいもの —
音楽、読書、お絵描き、学校のお勉強、物書き、スポーツ... etc.を持っているのに対し、
ゆったんの「アート」は、人を愛し人に愛されること、それのみなのかもしれません。
他に「何にもない」けどアイドル性だけは人一倍、
そんな人格もまたアイドル力の一種として必要かつ十分といえなくもないではありませんか。
いるだけで、そこにそうして在るだけで
エロスの象徴、エッセンス、炸裂である「アイドルであること」を体現してのける —
ゆったんのアイドルネスはそんなところにこそあるのでしょう。
アイドルという存在、またアイドルを愛するという行為/心性そのものが
もともと分ち難く「エロス」と結びついています。
われわれは男性だろうが女性だろうが
ヘテロセクシュアルだろうがホモセクシュアルだろうがバイセクシュアルだろうが
何らかのエロスなしには生きていられません。
超人間的な無償の愛「アガペー」やそれに似たヒューマンなラヴだけでは
人生や社会は到底耐え難い、潤いに欠けた退屈で窮屈な生きるに値しないものになりかねないのです。
「待機」時間中のゆったんは、自分を押しつぶしに来るそんな退屈さ窮屈さ乾燥に負けじと
いま、そこにあるエロス — 他メンバーのお尻へと向かってしまう/向かわざるを得ない、
そう考えるといろいろと「説明がつく」とも思えるのです。
ゆったん、それはきかん坊のこどもそのもの。
このきかん坊のエロスへの発作が、いま少しだけ乃木坂メンバーに引き続き許してもらえますように。
乃木坂46 『13日の金曜日』
公式チャンネル nogizaka46SMEJ·さんから
ゆったんセンターのカップリング曲「13日の金曜日」はタイプB収録
